スポーツ

ドラフト指名をされ入団拒否選手まとめ!その後の成績は?       

日本のプロ野球にドラフト制度が導入されたのは、今から56年前の1965年(昭和40年)でした。当時は、1965年度新人選手選択会議という名称でした。

第1回ドラフト会議で入団した選手の中には、読売ジャイアンツのドラフト1位・堀内恒夫さんや近鉄バッファローズのドラフト2位・鈴木啓示さんなど、名球会入りを果たしている選手がおります。

ドラフト指名を受け、プロとしての人生をスタートさせる選手もいれば、評価への不満や希望球団ではないといった、さまざまな事情で入団を拒否する選手もいるのも事実です。

実は、ドラフト制度が導入された1965年(昭和40年)のドラフトでは、全12球団で132名の選手を指名しておりますが、入団したのは52名で80名もの選手が入団拒否をされているのです。

ちょっと驚きですよね。半数以上が入団拒否をされているのですから。その後、改めてドラフト指名を受け、プロに進んだ選手もいらっしゃいます。

これまで数々のドラマを生んできたプロ野球ドラフト会議。今と当時では、状況や事情は異なるでしょうが、近年で入団拒否をした選手はどんな人がいたのか!その後の成績はどうなのかをまとめてみたので、みてみましょう。

千賀滉大は育成4位スタート!お化けフォークを投げるまで!      福岡ソフトバンクホークスのエース千賀滉大投手は、160㎞/hを超える豪速球とお化けフォークと呼ばれる変化球を武器に、日本を代表する投手の...
オコエ瑠偉の現在はケガから復帰してやる気MAX?戦力外の噂を撤回か?みなさん、東北楽天ゴールデンイーグルスに2015年ドラフト1位指名を受け、鳴り物入りで入団したオコエ瑠偉選手を覚えておりますでしょうか?...

入団拒否をした選手!その後の成績は?

今回は、1989年(平成元年)以降で、ドラフトで指名をされるも一度は入団を拒否し、その後、改めてプロ入りした選手をピックアップしてみました。

まず、最初に出てくるのはこの人ではないでしょうか!

菅野智之(読売ジャイアンツ)

巨人の絶対的エースで、日本球界を代表する投手の一人ですね。今シーズンはコンディション不良から本来のパフォーマンスとは程遠く、東京五輪も辞退するという形にもなってしまいましたが、その実力と実績は折り紙付きです。

菅野投手は、神奈川県相模原市出身で、伯父である現巨人の原監督に憧れ、野球をはじめ、高校は、神奈川の名門・東海大相模高校に進学します。激戦区と呼ばれる神奈川県、残念ながら高校3年間で甲子園の出場はならなかったようです。

高校時で最速148㎞/hを記録するなど、プロからも注目されていましたが、この時はドラフトでの指名はなく、東海大学に進学しております。

進学後も着実に成長していった菅野投手は、3年夏の第5回世界大学野球選手権大会の予選リーグ・キューバ戦で自己最速となる157km/hを記録しています。首都大学リーグでは37勝4敗、防御率0.57、347奪三振の成績を残し、大学№1右腕と呼ばれていました。

伯父である原監督の下でのプレーを望み、巨人入りを熱望していたこともあり、他球団は指名を避け、巨人の1本釣りと思われていましたが、日ハムがまさかの強行指名で、抽選の結果、日ハムが交渉権を獲得したのです。この状況に菅野投手は茫然。

菅野投手は、指名を拒否し、浪人して翌年のドラフトでの巨人入りを選択しますが、この行為に、「わがまま」「横暴」という非難の声もあったそうです。しかし、拒否した背景には日ハムから事前に指名の挨拶がなかったことに対する不信感もあったとも言われております。

1年の浪人を経て希望する巨人入りを果たした菅野投手は、ブランクを懸念される声もありましたが、そんな声を見事にはねのける活躍をみせます。1年目から、13勝6敗 防御率3.12とチームのリーグ優勝に貢献します。

この年の新人王は、16勝を挙げたヤクルトの小川投手が受賞していますが、1年目から二桁勝利を挙げる等、あの安定感はもうエースといってもよいぐらいの活躍でした。

5年目の2017年には、17勝5敗 防御率1.59と圧倒的な数字を残し、初の最多勝を獲得すると、翌2018年にも15勝8敗 防御率2.142年連続最多勝を獲得、防御率に関しては、2016年から3年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得しております。

若くして日本球界を代表する投手と呼ばれるようになりました。近年は腰痛などで、戦線を離脱する時期もありましたが、ほぼ毎年安定した投球を続け、数々のタイトルを手にしております。

実働8年間で、最多勝3回・最優秀防御率4回・最多奪三振2回・最高勝率1回・沢村賞2回・最優秀選手2回・ゴールデングラブ賞4回・ベストナイン4回、など抜群の実績を誇ります。

現在通算101勝49敗を挙げております。1シーズン平均12.6勝6.1敗。平均でも12勝は凄い数字ですが、負け数が少ないのも素晴らしいですね。通算防御率が2.32ですので、1試合で2点取られるかどうかですよ!

通算での勝率も.673ですので、10試合投げたら6~7試合は勝てる計算になるのですから、頼もしい。監督としてもこんな選手いたらありがたいですね。

8年でこの成績は凄いの一言。ぜひ200勝を達成してほしい。メジャーへ行かずにこのまま日本でタイトルを獲得し続けて、歴代のタイトル獲得回数の記録を塗り替えてほしいと思うのは私だけでしょうか?

これだけの成績を残されたら、日ハムはやっぱり欲しかったですよね。無理でもワンチャンあるならとドラフトで勝負してみたのでしょう。のちにそれで大谷選手を獲得していますので、この時の失敗が活きたのかもしれませんね。

長野久義(読売ジャイアンツ → 広島カープ)

2010年にドラフト1位で巨人に入団すると、1年目に新人王、2年目に首位打者、3年目に最多安打のタイトルを獲得するなど、瞬く間に中心選手へとなった長野選手でしたが、その後は怪我などに苦しみ、2018年オフに丸選手の人的保証で広島カープに移籍しております。

佐賀県出身の長野選手は、小学1年生から野球を始め、高校は福岡の筑陽学園高校に進学し、2002年の春季九州地区高校野球大会ベスト4の成績を収めています。プロからの誘いもあったようですが、日本大学へ進学しております。

大学2年までは三塁手だったようですが、持ち前の打撃力を生かすため、3年生から中堅手を守るようになりました。すると、そのコンバートが功を奏し、4年生の時に打撃が開花します。

2006年の春季は12試合で打率.489(47打数23安打)、秋季は13試合で打率.404(52打数21安打)の成績を残し、2期連続の首位打者を獲得するなどの活躍を見せます。東都大学リーグ通算87試合出場、290打数85安打、打率.293、10本塁打、40打点。

そして、2006年日ハムからドラフト4位指名を受けますが、巨人入りを熱望していた為、入団を拒否し、社会人チームHonda硬式野球部へ入部します。その後も活躍を続け、2008年のドラフトで千葉ロッテからドラフト2位指名を受けますが、やはり入団を拒否

2009年のドラフトで巨人から1位指名を受け、ようやくプロとしてのスタートを切ることになりました。2回のドラフトを断って3回目で念願の巨人に入ることが出来ました。

25歳での入団とオールドルーキーとも言える長野選手でしたが、1年目からレギュラーの座を掴むと、128試合に出場し、打率288 本塁打19 打点52 盗塁12 と堂々たる成績を残し、新人王に輝きます。

2年目には、怪我で離脱したラミレス選手に代わり、巨人軍第75代4番打者として出場も果たし、史上8人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなどの活躍を見せ、140試合出場で、打率316 本塁打17 打点69 盗塁19で首位打者のタイトルを獲得しました。

2011年は統一球導入により、打者は軒並み成績を落とす選手が多かった中、その影響を感じさせない成績を残し、ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞しています。

ちなみにこの年、打率3割を超えたのはセ・リーグ4人、パ・リーグ5人と両リーグ合わせても10人もいなかったのです。前年が両リーグで27人だったことを考えると、いかに統一球の影響が大きかったかわかりますね。その中での首位打者なので価値があります。

3年目も安定した成績を収め、2年連続で打率3割をマークするなど、144試合出場し、打率301 本塁打14 打点60 盗塁20 安打173という成績で最多安打のタイトルを獲得、さらにベストナイン・ゴールデングラブ賞も2年連続で受賞します。

攻走守すべてにおいて高いレベルでの活躍をみせトリプルスリーも予感させましたが、その後は、怪我や極度の打撃不振など調子の波が激しく、守備でも精細を欠くプレーなど目立つなど徐々に成績を落としていきました。

2018年オフ広島カープからFA宣言で巨人に加入した丸選手の人的保証という形で広島カープに移籍することとなります。しかしこの移籍には巨人ファンならず誰もが驚いたのではないでしょうか?

数年不振が続いていた長野選手でしたが、巨人入りを熱望し、ドラフト指名を2度拒否しての入団でしたし、数少ない巨人生え抜きの中心選手でしたので、内海選手に続き、まさかと衝撃を覚えたのを今でも思い出します。

移籍1年目は、自己ワーストの成績に終わりますが、昨年2020年は徐々に調子を取り戻し、2年ぶりに二桁本塁打を記録するなど復活の兆しを見せています。ベテランと呼ばれる年齢になっていますが、最後にもう一花咲かせてほしいですね。

内海哲也(読売ジャイアンツ → 西武ライオンズ)


2011年18勝、2012年15勝を挙げ2年連続最多勝を挙げる等、在籍15年で133勝を積み上げた、巨人軍を代表する左腕の一人です。現在は、西武からFA宣言で加入した炭谷選手(現楽天)の人的保証で西武へ移籍しております。

京都府出身の内海投手は、小学2年の時に野球を始めます。高校は福井県の名門・敦賀気比高校に進学すると、高校2年の秋に北信越大会優勝し、選抜高等学校野球大会への出場が決まっていましたが、他の部員の不祥事により、甲子園出場を辞退しています。

高校3年の夏の予選では福井大会決勝で福井県立福井商業高等学校に延長10回の末に2-3で敗戦し、甲子園出場は果たせなかったようです。高校時代は田中良平・森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれ、個人としても、「北陸のドクターK」と呼ばれていました。

最速144㎞/hの速球と落差の大きなカーブとのコンビネーションが抜群で、1試合平均14個を超える奪三振率を誇り、プロからも注目され、2000年のドラフト会議では複数球団による1位指名も予想されていました。

しかし、内海投手の祖父が巨人の野手だったこともあり、巨人以外からの指名は拒否することを表明したようです。それでもオリックスが単独で1位指名し交渉権を獲得します。指名直後に当時の仰木監督から電話を受け、一時はオリックス入団も考えたようです。

ただ高校時代にバッテリーを組んでいた李選手が巨人から8位で指名されたことで逆に巨人への思いが強くなったようで、オリックスへの入団は拒否し、社会人の東京ガスへ行くことを選択しました。

やはり、身内にプロ野球経験者がいると、その球団への憧れなどが強くなってしまうんですかね。菅野投手もそうでしたね。

社会人野球で更なる成長を遂げた内海投手は2003年に希望入団枠制度を利用して巨人に入団します。

※希望入団枠制度は、ドラフト上位候補選手が希望球団に入団できる制度で、「逆指名制度」・「自由獲得枠制度」とも呼ばれていました。1993年に導入され、2006年を最後に廃止されております。

1年目は、主に2軍での生活が続きましたが、2年目に1軍でのプロ初勝利を挙げます。3年目は、開幕は中継ぎでのスタートでしたが、先発の座を掴むと自身初の二桁12勝を挙げます。翌年は開幕投手も務めるなど14勝を挙げ、エースとして成長していきます。

8年目の2011年には、18勝を挙げ初の最多勝を獲得します。巨人の左腕として15勝以上上げたのは32年ぶりで、同じく左腕で最多勝を獲得したのは、42年ぶりという快挙でした。翌年にも15勝を挙げ、巨人の左腕では史上初の2年連続で最多勝を獲得しております。

2013年に13勝を挙げた以降は、怪我などの影響もあり二桁勝利を挙げることはできておりません。そして、2018年オフに西武からFA宣言で加入した炭谷選手の人的保証で西武へ移籍するという衝撃の事件が起きます。

他球団からのドラフト指名を断って、巨人愛を貫き入団し、そしてエースと長年球団を支えてきた選手が人的保証という形でトレードされると聞いて、驚きを隠せなかったのを覚えています。

たしかに成績は落ちてきており、年齢的にも苦しい部分があったと思いますが、功労者に対して「そりゃないだろ」と思いましたね。この出来事に巨人ファンを辞めるという方もいたのではないでしょうか。

巨人在籍15年で133勝を積み重ねた内海投手、圧巻だったのは2006年から2013年までの8シーズンで104勝を積み上げたことです。1シーズン平均13勝ですよ。これは菅野投手の平均12.6勝を上回る数字です。

西武で迎える2シーズン目、今季は移籍後初勝利も挙げております。かつての球威はないかもしれませんが、持ち前の投球術でさらに勝利数を重ねてほしいですね。

新垣渚(福岡ダイエーホークス → ヤクルトスワローズ → 2016年現役引退 )

福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の投手4本柱の一人、新垣投手。新垣投手と言ったら150㎞/hを超える直球魔球と呼ばれたスライダーですよね。直球とスライダーのコンビネーションでバッタバッタと三振の山を築く姿は圧巻でした。

新垣投手は、沖縄県那覇市の出身です。幼稚園の時は、キャプテン翼に憧れサッカーをしていたそうです。野球は小学2年から始めますが、初めは体格がいいことから捕手をしていたみたいですね。しかし、足を痛めて投手に転向したと言われております。

小学生時代の交通事故により右足に人工骨を埋める手術を受けて以降、右脚を3回、左脚を1回骨折するなど足の怪我が多かったようです。その為、高校では野球を辞める考えもあったようですが、沖縄水産高校へ進学して野球を続けたそうです。

そんな状態での高校野球でしたが、3年の時に第80回全国高等学校野球選手権大会出場を果たすと松坂選手と共に注目を集めます。そして全国大会史上初の151km/hを記録するなど球場を湧かせました。チームは初戦で敗れましたが、プロの注目は高まりました。

その年のドラフト会議で、オリックスとダイエーホークスから1位指名を受け、競合の結果、オリックスが交渉権を得ます。しかし、新垣投手はホークス以外なら進学と決めていたようで、入団拒否の姿勢を貫いていたそうです。

その結果、一つの事件が発生します。入団交渉に動いていたオリックスのスカウト三輪田氏が自殺して亡くなってしまったのです。詳細は明かされていませんが、「野球ゴロ」という存在が関わっていたとも言われております。

「野球ゴロ」・・・アマチュア選手とプロ球団の間に入り込んで、ひと儲けをたくらむ人達のこと。

いつの時代にもどこの場所にも人の卑劣な人たちがいるもんですね。なぜそんなことが出来るのでしょうか・・・

この事件のことで、新垣選手やその家族、学校関係者にも非難の声が続出し、野球を辞めようとも考えたそうです。しかし、三輪田氏の奥さんから「(三輪田の死は)あなた(新垣)のせいではない。これからも頑張って」と激励され、思いとどまったと言われています。

結局、オリックスへの入団は拒否し、九州共立大学へ進学します。大学球界を代表する右腕に成長し、2年と3年では日米大学野球選手権大会日本代表選出されます。福岡六大学リーグ戦通算39試合登板、23勝5敗、防御率1.03 と圧倒的な成績を残しました。

そして2002年のドラフト会議で、福岡ダイエーホークスから自由獲得枠指名を受けて晴れてプロの道へ進むことが出来ました。

1年目から先発ローテーションの座を勝ち取ると、シーズン終盤は故障もあったものの、18試合で8勝7敗・防御率3.34の成績を残します。2年目にはチーム最多の11勝を挙げ、177奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得します。

3年目は、肘や足首の不調などもあり、防御率は4点台でしたが、2年連続二桁10勝を挙げます。4年目には自己最多の13勝をあげるなどホークスのエースへの階段を順調に登っていると思われていました。

しかし5年目から歯車が狂い始めます。スライダーを生かす為にシュートを習得しオープン戦では好調でしたが、シーズンが始まると多くの暴投を記録するようになり、当時の王監督から「暴投王」と呼ばれることもありました。

最終的に1シーズンで25暴投を記録し、現在も最多記録として残っています。その結果、7勝10敗の成績で終わり、連続二けた勝利の記録も途絶えます。

その後、暴投を少なくするために、コーチ陣を含めいろいろ試行錯誤しながら練習を行いますが、改善されることはなく、1軍での登板機会は減っていきました。すると12年目のシーズン途中にヤクルトとの交換トレードが成立し、ヤクルトへ移籍することになります。

再生工場と言われたヤクルトで再起を図りますが、結果を残すことができず、移籍3年目のオフに戦力外となり、トライアウトを受けるもオファーはなく、現役引退となりました。

引退後は、2017年から古巣ソフトバンクの球団職員となり、現在は福岡ソフトバンクホークスジュニアチームの監督に就任しているようです。

新垣選手はもっと活躍できる選手だったと思います。元々コントロールの良いピッチャーではなかったように感じますが、暴投の多くなった要因として、シュートを習得した影響が挙げられていますが、私個人的にはキャッチャーの影響もあったのではないかと思っています。

新垣選手が入団した2003年から2005年までは、球界を代表する捕手・城島選手がほぼマスクを被っていました。2006年からはメジャーリーグへ移籍し、ソフトバンクの正捕手は不在になりました。2006年こそ13勝を挙げますが、暴投が二桁10個を記録しています。

そして、2007年に暴投25個という不名誉な記録を達成してしまいます。本当に個人的な意見です。当時のキャッチャーが悪いというわけではありませんが、城島選手だったら今のボールは止めてくれていたんじゃないかな、と思うことが多々ありました。

それからこの記事を書きながら、当時の様子を読み返す中で、悪い部分に目を向けるのではなく、良い部分に目を向けてストレートやスライダーの精度を上げる道を選択したほうが新垣投手にとっては良かったのではないか、と思ってしまいました。

たらればの話になってしまいますが、新垣投手は本当にいい投手でした。あのストレートとスライダーはエグかった。今はジュニアチームの監督をしているということですので、ワクワクする選手を育成してくれることを祈っております。

 

福留孝介(中日ドラゴンズ → カブス → インディアンス → ホワイトソックス→ ヤンキース3A → 阪神タイガース → 中日ドラゴンズ)

福留選手といえば、中日在籍時に2度の首位打者や3割30本100打点100得点という56年ぶりの記録を達成するなど、攻走守3拍子揃った日本球界を代表する外野手の一人ですね。メジャーへも挑戦し、2021年から古巣中日ドラゴンズに復帰しております。

鹿児島県大崎町出身で小学校3年生の時にソフトボールを始め、6年時に全国大会に出場。中学時代にはボーイズリーグの「鹿屋ビッグベアーズ」に入団し全国制覇を果たしているそうです。

その為、地元の有力高校から複数の勧誘があったそうですが、中日ドラゴンズの立浪選手に憧れており、立浪選手と同じ野球の名門・PL学園に行くことを選択すると、1年生にして秋には4番を任されるなどその才能をいかんなく発揮します。

3年の夏の大阪大会では7本塁打を放ち、高校№1スラッガーと呼ばれプロからの注目も高まります。甲子園でも打率467(15打数7安打)本塁打2 打点7という素晴らしい成績を収めました。


 
そして同年秋のドラフト会議では、高校生としては史上最多となる7球団(中日・巨人・近鉄・日本ハム・千葉ロッテ、オリックス・ヤクルト)から1位指名受けます。抽選の結果、近鉄が交渉権を得ますが、中日・巨人以外なら社会人に進むと決めており、入団を拒否

社会人野球の日本生命に入社し、1年目にアトランタ五輪の野球日本代表に選ばれると、2本塁打を放つなど銀メダル獲得に貢献しております。その後も活躍を続け、社会人時代の通算成績は93試合 打率383本塁打33 打点96 盗塁25となっております。

入社3年目の1998年に逆指名制度を利用して中日ドラゴンズへドラフト1位扱いで入団しました。入団時は内野手登録だったようです。背番号は1と新人選手に一桁の背番号が与えられるということは球団の期待の高さが伺えます。

1年目からスタメンで起用されると、打撃では打率286 本塁打16 と新人としては優秀な成績を収めますが、守備面では粗さが目立ち、失策が、遊撃手13・三塁手4・二塁手1・外野手1と4つのポジションで計19を記録しました。

2年目に入っても失策の多さが目立ち、その影響もあり打撃も調子を落とし前年より成績を落とします。転機は4年目でした。これまで内野での起用が殆どでしたが、外野手へ本格的にコンバートされます。

守備への負担が軽減され、さらに打撃フォームの改造も功を奏し一気に打撃の才能が開花します。打率343 本塁打19 打点65 という成績を残し、首位打者のタイトルを獲得し、巨人の松井選手の三冠王を阻んだことで有名ですね。

翌年も、打率313 本塁打34 打点96 とタイトルは取れませんでしたが、中軸を担うバッターとして確固たる地位を築きます。その後も安定した成績を残し、2006年に打率351 本塁打31 打点104 という好成績で2度目の首位打者のタイトルを獲得しました。

2008年から勝負の場をメジャーリーグへ移しますが、思うような成績を残すことが出来ずに、4球団を渡り歩いたのち、2012年のオフに阪神タイガースの入団を発表し、日本球界への復帰を果たします。

日本球界復帰後も1~2年は苦しみますが、勝負強さは健在で、ここ一番という場面で期待に応える活躍をみせます。さずがに全盛期ほどの成績は収められませんでしたが、福留選手が打席に入ると何かを期待させる雰囲気がありましたね。

2021年から古巣中日ドラゴンズへ復帰を果たし、おそらく福留選手にとって集大成と言える年になるのではないでしょうか。現役最年長の44歳で迎えた今シーズン、野球ファンにどんな感動を届けてくれるのでしょうか。

まとめ

さて今回は、1989年(平成元年)以降で、ドラフトで指名をされるも一度は入団を拒否し、その後、改めてプロ入りした選手を見てきましたがいかがだったでしょうか。

他にもいらっしゃったのですが、個人的にぜひお伝えしたいと思った5名についてまとめさせていただきました。今回改めてまとめてみて、巨人愛を貫いた2名の選手が人的保証という形で移籍することになったというのは少し悲しく思えましたね。

もちろん球団の事情もあるかとは思いますが、ファンからすると球団への不信感を抱きかねない出来事だったのかなと思います。

これまで数々のドラマを生んできたプロ野球ドラフト会議、今回ピックアップした選手は意中の球団があり入団を拒否した方々でしたが、中には指名順位(評価)に納得できず入団を拒否する方々もいらっしゃいました。

しかし、ドラフト下位や育成契約から這い上がり球界を代表する選手になる方々もおります。そんな方々をみると、果たしてドラフト指名の順位にこだわる必要はあるのかと疑問に思うこともあります。どう受け取るかは各々の判断ですので否定は致しませんが・・・

2021年、2年ぶりに夏の甲子園が開催されております。今年はどんなスターが生まれ、どんなドラマが生まれるのか、そして今年のドラフト会議は何が起きるのか、今から楽しみですね。毎年、いろいろ感動を与えてくれるから野球ファンは辞められませんね。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

大谷翔平の二刀流に対する評価は?メジャー前と後で驚きの変化が!メジャーリーグ4年目にしてオールスターゲームへの出場が正式に決定した、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手。 2018年シーズン...
甲斐拓也は育成6位からスタートの捕手!成り上がり野球人生まとめ!福岡ソフトバンクホークスの正捕手・甲斐拓也捕手は、東京オリンピックに出場する侍ジャパンの正捕手も務めるなど、日本球界を代表する捕手と言わ...