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古田敦也のストライキとは?球界を救ったID野球人生まとめ!

現在は、野球解説者やスポーツキャスターとして活躍されている古田敦也さんですが、ヤクルトスワローズの黄金期を支えた名キャッチャーでもありました。当時、監督であった野村克也氏から英才教育を受け『ID野球の申し子』とも呼ばれていますね。

数々の賞を受賞し、2000本安打も達成、名球会入りも果たしている古田敦也さん、長いプロ野球界の歴史の中でも歴代最強のキャッチャーと呼ばれるほどの成績を収めてきておりますが、個人の成績以外でも、プロ野球界に残した大きな功績を覚えていますでしょうか。

1936年に日本プロ野球がスタートしてから2021年の現在まで86年の歴史の中で、一度だけストライキが起きたことがあります。それは2004年のシーズンでした。そしてその時の中心にいたのが、当時の選手会長が古田敦也さんです。

この時のストライキが球界を救うこととなり、プロ野球界に大きな変化をもたらせました。果たしてなぜストライキは起きてしまったのか、ID野球・古田敦也さんの野球人生を振り返ってみましょう。

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太っていたからキャッチャーに

野球を始めたきっかけは、父親に無理やり野球を始めさせられたと話しておられました。父親は柔道をしていたようですが、プロなどなかった為、先々を考えて見返りのある野球を始めたと言われております。当時は、父親が怖かったようで反論できなかったそうです。

最初は近所の子たちとキャッチボールなど行っており、小学3年生の時に地元の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に所属していました。

この「加茂ブレーブス」は100人ほど所属する大きなチームのようで、A~Dチームまで分けられていたそうです。古田さんはその中で「Dチーム」に振り分けられます。

そんな中、監督からの「誰かキャッチャーできるやつはいないか?」の問いに、友人が「古田君ができま~す」と言ったことでキャッチャーをすることに。当時、太っていたこともあり、「太っている=キャッチャー」となったそうです。

Dチームから始まった古田氏ですが、6年生の時には、主将で4番・キャッチャーとチームの大黒柱になっていました。

野球以外にはまったこととして、習字と将棋を挙げておられます。将棋は父親とのコミュニケーションツールだったようですが、その腕前は、日本将棋連盟から、三段の免状をもらえる程です。

古田さんは、この将棋の力量がキャッチャーの配球や戦局を読む力にも活きていたのかもしれませんね。師と仰ぐ野村克也さんも野球と将棋の共通点を指摘し、野村監督時代のヤクルトでは空き時間によく将棋を指していたそうです。

中学は地元の宝塚市立南ひばりガ丘中学校に進み、注目をされる選手となり、高校進学時には私立校から誘いもあったそうですが、実家に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学しております。甲子園の出場はなく高校3年間はほぼ無名の存在でした。

大学進学は野球推薦ではなく、一般入試を経て、立命館大学に進学することになるのですが、実はこの時、関西大学にも受かっており、経済的な負担も考え実家から通える関西大学に行こうと思っていたようです。

しかし、当時の監督に「一度、立命館の練習に参加してこい」と言われ、練習に参加した際に、立命館の監督に「ぜひ、きてほしい」とお願いされたようです。断る目的で再度、訪問した際に、強引に押し切られ立命館に進むことになったそうです。


野球を始めるきっかけやキャッチャーをやることになった経緯、大学の進学など、こう見てみると、古田さんは少し押しに弱いタイプの人だったのでしょうか。

ただ、この立命館への進学が古田選手の転機となるのでした。

ちなみに、高校時代は視力が0.5だったそうですが、大学進学に向けての受験勉強の影響か、視力が0.1まで落ち、大学に入ってから眼鏡をかけるようになったそうです。古田さんと言えば、「眼鏡」ですが、意外にも大学に入ってからかけ始めたんですね。

大学で覚醒!ドラフト候補だったも漏れてしまう

半ば強引に押し切られる形で、立命館大学に進学した古田選手でしたが、当時の中尾監督の指導方針が肌にあっており、自分の力が発揮しやすかったと話しております。体育会にありがちな軍隊的指導ではなく、伸び伸びした雰囲気での環境があっていたようです。

3年生の時に関西学生リーグで秋季連続優勝を果たすと、4年生の時にはキャプテンとなり、さらには日本代表に選ばれるまでなっていたそうです。プロを意識したのはこの頃からと言われております。

日本代表で、全国から優秀な選手が集まる中、他のキャッチャーをみて「アマチュアのトップレベルはこのくらいか」と感じ、これならプロでもやれるんじゃないかと思ったそうです。

この時、古田さんが心の中で思っただけで、言葉には出していないんでしょうが、ビッグマウスですね。後に球史に残る名キャッチャーとなるわけなので、古田さんの感覚も間違ってはいなかったわけですが、全国の猛者を見て、その感想は凄いですね。

日本代表に選ばれるぐらいの存在ですので、プロからも注目をされており、いくつかの球団のスカウトも視察にきていたそうです。関西学生リーグでは、通算77試合に出場し234打数72安打、打率.308、8本塁打、44打点。ベストナインに4度選ばれています。

1987年のドラフト会議では、日ハムから上位指名の連絡もあり、会見用にひな壇も準備していたそうですが、結局どこの球団からも指名されることはありませんでした。当時、「古田は鳥目」という情報が出回ったことで、日ハムは急遽指名を止めたそうです。

また、当時「眼鏡のキャッチャーは大成しない」と言われており、古田さんは指名から漏れたと言われております。この時の屈辱を晴らすために、意地でもプロになってやると強い思いに変わったようです。

大学卒業後は、一般の新卒採用に応募し、トヨタ自動車へ入社しております。1年目から正捕手の座を掴むと、1988年8月に行われたソウルオリンピックの野球日本代表に選出され、野茂英雄さん、潮崎哲也さんらとバッテリーを組み、銀メダル獲得に貢献しております。

当時のヤクルトのスカウト部長・片岡氏が古田さんのプレーにほれ込み、1989年のドラフト会議で、ヤクルトから2位指名を受け、入団することになります。さらにこの年から野村克也氏が監督に就任していました。

古田さんと野村監督の運命の出会いですね。

二度目のドラフト候補でヤクルトから二位指名

1987年のドラフト指名漏れから2年後の1989年のドラフトでヤクルトから2指名を受けて入団した古田さんは、1年目の4月末から正捕手に抜擢されると、106試合に出場し、打率は.250ながらも、盗塁阻止率.527で1位を記録し、ゴールデングラブ賞を獲得します。

2年目、オールスターで盗塁を3度刺しMVPを獲得。打撃も開花し、打率.340で首位打者を獲得します。捕手での首位打者は野村克也氏以来で、セ・リーグでは初のことでした。

3年目、打率.316 本塁打30 打点86と好守に渡って活躍し、1978年以来14年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。日本シリーズは西武に敗れてしまいます。

4年目、2年連続全試合出場し、リーグ優勝に貢献。日本シリーズでは、西武を破って15年ぶりの日本一に輝き、日本シリーズMVPにも選ばれております。この年に記録した、盗塁阻止率.644は今だ破られておりません。

プロの中でも盗塁阻止率は3~4割なら十分とされる中、古田さんは驚異の6割超え!甲斐キャノンで知られる甲斐選手でも最高で「.447」です。異次元の記録ですね。

5年目、開幕直後に骨折をし戦線離脱をすると、チームも4位に終わります。6年目は、全試合出場を果たすとリーグ優勝をし、日本シリーズでは、イチロー擁するオリックスを倒し、2年ぶりの日本一に輝きます。翌7年目は、低調な成績に終わり、チーム4位でした。

8年目、4番を任されるなど全試合出場を果し、好守に渡って奮闘しリーグ優勝と日本一に輝きます。そして捕手として初めて、セ・リーグMVPと日本シリーズMVPのダブル受賞します。9年目は打撃が不調で、チームも4位に終わり、オフに野村監督が退任となります。

野村監督が在籍した1989年~1998年の9年間で、リーグ優勝4回、日本一3回とそれまで14年間も優勝から遠ざかっていた球団とは思えない成績ですね。そして、チームの成績には明らかに古田さんの活躍が大きく関係していることがわかります。

1999年から監督に若松氏が就任します。10年目、自身5度目の打率3割超え、11年目は盗塁阻止率.630を記録しますが、チームは4年連続4位と低迷します。

12年目、シーズン終盤に左ひざを負傷するも、打率.324を記録するなどリーグ優勝に貢献。日本シリーズも制し、自身2度目のシリーズMVPも受賞しております。

13年目、打率3割を達成しますが、本塁打は4年ぶりに二桁に届かず9本塁打でした。しかし、14年目は打率3割こそ逃しますが、23本塁打を記録。20本塁打を超えるのは、8年ぶりでした。

15年目、打率.306 本塁打24 打点79と好成績を収めます。39歳のシーズンで打率3割は史上3人目で捕手としては初のことでした。ただ一方で、盗塁阻止率は.259でリーグ最下位と肩の衰えが見られます。

16年目、捕手としては野村克也氏以来となる史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成します。しかし、怪我などもあり、11年ぶりに規定打席未達成でシーズンを終えました。

17年目、2005年オフに若松監督が退任し、野村克也氏以来29年ぶりとなる選手兼監督としてヤクルトを率いることとなりますが、攻撃的な布陣で臨むも、リーグ3位に終わります。選手としては36試合の出場でしたが、「代打・俺」は当時話題になりましたね。

18年目、選手兼任監督として迎える2年目は、怪我の影響もあり選手としては10試合の出場にとどまり、チームも23年ぶりにリーグ最下位が決定し、シーズン途中ながら現役引退・監督退任を発表しました。

古田敦也のストライキとは?

古田さんがプロ15年目39歳となる年、2004年9月18~19日にプロ野球史上初めてのストライキが起きました。その時の中心人物が、当時、プロ野球選手会の選手会長であった古田さんでした。

2004年6月13日に近鉄バファローズの親会社の経営が厳しくなったことを理由に、オリックス・ブルーウェーブとの合併を発表したことから始まります。このことは、近鉄の監督や選手たちに一切知らされていなかったそうです。

これまでプロ野球の歴史において球団の身売りはありましたが、今回の発表は合併という話だったため、球団に残れず路頭に迷ってしまう選手が出てくる可能性が大いにありました。その為、近鉄の選手たちは球団を残してほしいと猛反発しました。

当時の近鉄の選手会長であった磯部選手が発した言葉は、「裏方の人たちはどうなるんですか」だったそうです。自分たちも仕事がなくなる可能性がある中、それよりも裏方のスタッフたちのことを考えていたというところに感動しますね。

この納得のいかない合併について、日本プロ野球選手会として当時の選手会会長であった古田さんが、経営陣に説明を求めますが、冷たくあしらわれたと言われております。その時に言われた内容として、

  • 経営サイドのことなので選手会にとやかく言われる筋合いはない
  • これは決まったことなんだ
  • 身売りも考えたが買い手がなかった
  • しょうがないから合併するんだ

と言われたそうです。

そんな中、突然球団の買収に名乗りを上げる企業がありました。当時ライブドアの社長だった堀江貴文さんです。買い手がなかったと言っていたはずの買い手が現れ、近鉄ファンからは救世主と称えられるようになります。

しかし、経営陣はこの件を無視し、2004年7月7日には、近鉄・オリックス以外にも球団の合併し、セ・リーグの6球団とパ・リーグの4球団を統一して1リーグ制にする構想を発表します。※もう一つの合併は、ダイエーとロッテだったようです

経営陣は1リーグ制にする構想まで描いていたため、近鉄は身売りではなくオリックスと合併という方法を選び、ライブドアの買収話も無視していたということになりますね。※最終的には1リーグ8球団構想まで話があったようです。

ここまでの話だけでも、選手やファンのことなんて全く考えてないように思えますね。

このことに、選手会長・古田さんは強く反発の意思を示します。選手やファンに対して事情を説明し、すまなかったという話ならまだ理解できるが真逆で、経営陣の勝手だというスタンスに納得できなかったと話されています。

古田さんは、ヤクルトの主力として試合に出場を続けながらも、選手会会長として、経営陣と交渉するために専門性を高める勉強をしたり、対策を考えていたりしたそうです。またこの合併に納得できない選手たちは、署名運動を始めていました。

この選手会の行動について、当時、巨人球団オーナーの渡邉恒雄氏にコメントを求めた際の「無礼なことをいうな、分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」という発言が物議を醸しだします。

この発言に、さすがの野球ファンも反発しデモ活動が起こるまでに発展しました。それでも経営陣の考えが変わることはなかったようです。合併の凍結とならないのであればと、選手会は、2004年9月6日にストライキを実行する考えを経営陣に通告しております。

古田さんとはしては、ファンに迷惑がかかるので本当はストライキをしたくなかったそうです。しかし、経営陣の考えを改めさせるにはこのぐらいはしないとと苦渋の決断でした。

ところが、経営陣はこれを受けて考えを改めるのではなく、2004年9月8日に近鉄とオリックスの経営統合を正式に発表します。さらに「不思議なストライキ」「経営の中身に選手が意見をするのはおかしい」と真っ向から否定するのでした。

その後、経営陣と選手会との交渉の場が設けられ話し合いが行われます。その中で、近鉄とオリックスの合併の話は止められそうにないことを悟った古田さんは、来シーズンからの新規参入を求め、12球団の維持を認めればストライキを回避すると伝えたそうです。

そして、2004年9月17日にストライキ回避に向けて合意文書の作成が行われることになり、その中で、経営陣は新規参入を受け入れる時期について、【来季(2005年)】ではなく、【来季以降】にしてほしいといってきたそうです。

実はこの交渉の前日、2004年9月16日に大手IT企業である楽天の三木谷社長が新規参入の意思を表明しておりました。

それなのに、新規参入時期について【来季以降】と譲らないということに対して、古田さんは、「新規球団を受け入れる気はない」「球団を減らす気しかない」と相手の意図をくみ取り、交渉は決裂、ストライキをすることを決断したといわれております。

その日の午後9時に古田さんはファンの方へ謝罪後、ストライキを決行することが伝えられました。町では号外も配られる事態となりますが、この時も経営陣は、このストライキについて違法でありかつ不当なものと言い放ちます。

この日の会見後、フジテレビのスポーツニュースに出演した古田さんは、ファンからの温かい言葉、選手会の意見を尊重する言葉を聞いて、生放送中にも関わらず感極まり涙を流し、言葉につまる姿は、野球ファンの心に響きましたね。

この古田さんの涙で、選手とファンとの結束力が高まります。そして流れはかわり、1週間後の2004年9月23日、経営陣が一転意見を翻し、審査したうえで来期からの新規参入を認め、12球団存続をさせることで合意したのです。

そして、ライブドアと楽天の競合の結果、楽天が新規オーナーに決まり、2004年10月29日に東北楽天ゴールデンイーグルスが設立されました。これにより一連の騒動は終結することとなります。

騒動としては、終結しましたが、経営陣の方々への不信感は変わらないような気がします。節々に出てくる、選手やファンを見下した感じの発言など、とても容認できるものではありませんでしたね。

この時、古田さんを始め選手会が立ち上がっていなければ、今頃1リーグ8球団になっていたかもしれません。日本の野球はやはりセとパと分かれて12球団あった方が面白いですね。

楽天という球団が誕生してから早17年経ち、2005年~2009年まで、古田さんの師である野村氏が監督を務め、これも運命的なものを感じますね。

小学生の頃から言われるがままに行動をしてきた古田さんでしたが、この時はおかしいと思うことにはおかしいとしっかりと意思を伝え、権力者に負けることなく、プロ野球界を救ってくれた救世主へと成長していました。

惜しまれながら引退

ヤクルトスワローズの黄金期を支えた古田さん、「眼鏡のキャッチャーは大成しない」という言葉を覆す素晴らしい活躍をみせ、多くのファンを魅了してくれましたが、2007年シーズンを持って、惜しまれながらも選手引退・監督退任となりました。

古田さんは、選手・監督としてヤクルトスワローズ一筋18年の日々を過ごし、

リーグ優勝5回・日本一4回・首位打者1回・最多安打1回・最優秀選手2回・ベストナイン9回・ゴールデングラブ賞10回・盗塁阻止率.644(日本記録)・通算盗塁阻止率.462・通算打率.294・シーズン打率3割超え(8回)・2000本安打達成(捕手としては歴代2人目・大卒、社会人経験者としては歴代初)・オールスターゲームで史上初のサイクル安打達成・29年ぶり選手兼任監督 等

キャッチャーとして守備面はもちろんのこと、打撃面でも非常に優秀な成績を収めており、ヤクルトスワローズの黄金期を支え、個人の記録以外にもプロ野球界に多大な功績を残しました。

2007年10月7日に行われた本拠地最終戦(対広島)では、チケットが販売後数時間で完売するほどの人気。来場者には古田さんからのメモリアルボードが配られたそうです。試合開始前には、モニターに若かりし頃の古田さんや野村克也氏も映し出されていました。

この日の球場では、古田さんの打席が回ってくるたびに、広島ファンも含めて古田さんのメモリアルボードを頭の上に掲げ、球場全体で古田さんの応援をしていました。

試合終盤の8回表は、長年バッテリーを組んできた左腕・石井一久氏がマウンドに上がります。古田さんはピッチャーによってミットの色を変えていたそうで、コントロールの悪かった石井氏には冷静にさせる効果があるという青いミットを使っていました。

8回裏は古田さんの打席が回ってきたのですが、マウンドには、前日引退登板を果たしたはずの佐々岡氏がいました。同世代を戦ってきた戦友の登場に球場も盛り上がります。当時・広島のブラウン監督の粋な計らいに感動したのではないでしょうか。

9回は、ヤクルトの黄金期を共に支えた戦友の1人、高津氏とバッテリーを組みます。対して広島も前田氏や緒方氏など90年代を彩った名選手たちを代打で出すなど、盛り上げてくれました。



試合終了後の引退セレモニーでは、古田さんの歴史をまとめた映像を見た後、両親や家族、選手・スタッフ、ファンに対して感謝の言葉を伝えます。

「何度も心が折れそうになったり、弱気になったり、いろんなことがあったんですけども、ほんとうに皆さんの声に支えられました。ありがとうございました」

そう伝えると、ファンからの声に涙をこらえながら最後に、

「18年間ほんとうにありがとうございました。また会いましょう」

と言葉を綴り最後を締めました。セレモニー終了後には、選手全員がホームベース上に集まり、古田さんを胴上げし、背番号27が5度宙に舞います。

その後、ファンに最後の挨拶をする為、グラウンドを回りますが、試合終了後でもスタンドは超満員で最後まで古田さん拍手が鳴りやみませんでした。どれだけファンに愛されていたか伝わるシーンでした。

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まとめ

日本プロ野球界の歴史に名を刻む一人の古田敦也さんについてみてきましたが、いかがだったでしょうか。

野球を始めたきっかけは、プロがあるからという理由で父親に無理やり始めさせられたというところからスタートでした。しかし球史に名を残す名選手になったのですから、その目に狂いはなかったということですね。

大学では日本代表に選ばれるほどの逸材ながら、「眼鏡」という理由でドラフトでは指名漏れを経験し、そこで挫けるのではなく、見返すと強い思いでさらに成長を遂げ、ヤクルトへ入団。日ハムではなくヤクルトでの野村氏との出会いが運命だったのでしょう。

更には、苦しみながらも涙のストライキ決行。長い日本プロ野球の歴史の中でも後にも先にもこの一度だけです。古田さんは、「初」という記録をいったい何個もっているのでしょうか?

名将・野村克也氏を師に持ち、ID野球の申し子と呼ばれた古田敦也さんは、今後、どこかのユニホームを着てグランドに帰ってくることはあるのでしょうか?

いやっ!是非帰ってきてほしい。どこのユニホームでもいいので、古田敦也さんが采配を振るっている姿を見れることを楽しみに待ちましょう。

最後までご覧いただきありがとうございました。

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