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松坂大輔が引退を表明!平成の怪物は栄光と挫折ありの野球人生!

2021年7月7日、西武ライオンズに所属する松坂大輔投手(40)今シーズン限りでの引退を表明しました。

1998年に春夏甲子園連覇を果たし、『平成の怪物』と言われた松坂大輔投手。その名に恥じぬことのない、数々の伝説と記録、名言を残し、野球ファンを魅了してきましたが、ついにユニホームを脱ぐ時がきました。

高校時代に一気に野球界のスターダムを駆け上がった華やかな野球人生から、一転、近年は怪我に苦しみ日本球界復帰後は非難の声も多く聞かれ、辛い時期もあったのではないでしょうか。

今回は、平成の怪物と呼ばれた松坂大輔投手の栄光と挫折の野球人生を振り返ってみましょう。

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甲子園でノーヒットノーランを達成した平成の怪物!

平成の怪物と呼ばれた松坂投手、横浜高校出身でタレントの上地雄二さんとバッテリーを組んでいたというのは有名な話ですね。でもどうやら進学の際に帝京高校という選択もあったようです。

しかし、シニア日本代表で知り合った小山良男さん(元中日ドラゴンズ)に誘われて、横浜高校を選んだそうです。そして松坂―上地バッテリーが結成され、のちに小山良男さんともバッテリーを組み、甲子園春夏連覇を達成することになります。

この時、松坂投手が帝京高校を選んでいたら、上地さんは今のように自慢できていませんでしたね。もしかしたら野球の仕事も減っていたかも・・・(笑)

それはさておき、1998年、春の選抜大会は5試合を1人で投げ抜き、優勝を果たしております。しかも5試合中3試合は完封しており、失点も2回戦の報徳学園戦で2失点と、準決勝のPL学園戦の2失点のみでした。45イニングで失点4!防御率0.80!!!

当時の横浜高校には、小山選手(中日)、後藤選手(西武→横浜)、小池選手(横浜→中日→DeNA)とのちにプロに進んだ選手が3名もおり、チーム力も高かったこともありますが、それ以上の松坂投手のピッチングが見事でした。

そして、春夏連覇をかけて挑んだ夏の甲子園で伝説が生まれます。1回戦の柳ヶ浦高校(大分県)との試合では、制球が安定せず、5四死球を与えますが3安打1失点に抑え完投勝利を収めております。

2回戦では、初戦をノーヒットノーランで勝ち上がった杉内投手(ソフトバンク→巨人)率いる鹿児島実業(鹿児島県)と対戦でした。息詰まる投手戦となりますが、終盤に打線が爆発し6‐0で勝利。松坂投手は制球も安定し、四死球は0。5安打に抑え完封しております。


3回戦は、松井秀喜さんの母校、星稜高校(石川県)と対戦します。ストレートに標準を合わせていた星稜打線に対して、緩い球を効果的に使い、9回を投げ切り、4安打・13奪三振・2四死球と圧倒し、2試合連続完封で勝利します。

続く準々決勝で春のリベンジに燃えるPL学園(南大阪)との一戦は、今でも伝説と語りつがれる試合となりました。PL学園は2回裏に松坂投手から3点を奪い先制します。4回表に横浜が2点を返しますが、その裏1点を加え2-4とPL学園がリードを広げます。

しかし、5回表に横浜高校が2点を奪い同点に追いつきます。7回裏にPL学園が1点を奪い再びリードを奪いますが、8回表、横浜もすぐさま取返し同点にすると、9回で決着はつかず5-5のまま延長戦に突入します。

すると11回表に横浜が1点を取り、この試合初めてリードを奪います。これで横浜勝利と思われましたが、その裏PL学園は驚異の粘りを見せ同点に追いつきます。その後は両投手が踏ん張り、12回~15回までスコアボードに0が並びます。

ただ圧巻だったのは、ここまで一人で投げてきている松坂投手でした。この日は10回までに6四死球と荒れていましたが、それ以降は無四球で、12回~15回の4イニングは全て3者凡退に抑えていたのです。

松坂投手の頑張りに応えたい打線は、16回表に満塁のチャンスを作ると、内野ゴロの間に1点が入り、再び勝ち越します。延長に入ってから凄みを増した松坂投手のピッチングにさすがのPL学園もここまでかと誰もが思ったのではないでしょうか。

16回裏、PL学園はヒットで5イニングぶりにランナーが出塁すると、ワイルドピッチで3塁まで進みます。ショートゴロの1塁送球の間に3塁ランナーがホームを狙います。1塁からのバックホームの送球がそれ、執念で1点をもぎ取り再び試合は振り出しに戻ります。

この延長に入ってからのPL学園の粘り・執念は本当に凄かったですね。春のリベンジ、2度も同じ相手に負けてたまるかという気迫が画面越しでも伝わってきたのを覚えています。

再び同点となった17回表、エラーで出塁したランナーを一人置き、途中出場の7番・常盤くんが放った打球はライトスタンドに吸い込まれる勝ち越し2ランとなり、三度横浜が勝ち越します。

その裏、最後の力を振り絞り、最後のバッターを三振に打ち取り試合終了。9‐7で横浜高校が勝利します。松坂投手は延長17回を一人で投げ抜き、伝説の250球と呼ばれております。松坂投手:17回 250球 13安打 11奪三振 6四死球 7失点


この試合は本当に感動ものでしたね。ドラマでもここまでの脚本は書けないんじゃないかというぐらい凄い試合でした。

ちなみに、この試合がきっかけで、これまで延長18回制だったのが、長すぎるという意見が多数あり、2年後から延長15回制に変更になっております。

激戦の翌日には、準決勝で強豪・明徳義塾(高知)と対戦でした。前日に250球完投をしていた松坂投手はさすがに先発マウンドには立ちませんでしたが、それでも4番・レフトでスタメン出場します。今の大谷選手のようですね。

松坂投手の代わりに2年生の二人の投手がマウンドを託されますが、明徳の強力打線に捕まり、計6点を奪われます。援護したい打線も7回まで3安打無得点に抑えられていました。8回表が終わった時点で0‐6とさすがに横浜もここまでかと思われました。

しかし、8回裏にエラーによる出塁から反撃が始まり、安打と暴投などで一挙に4点を返し、4‐6と2点差まで詰め寄り、勝負はわからなくなります。するとこの日は登板しないと言っていた松坂投手が9回のマウンドに上がり、球場は多くの拍手で包まれました。

9回のマウンド、先頭打者を三振に取った後、四球でランナーを出しますが、次の打者を併殺打に打ち取り、3人で切り抜け、9回裏の攻撃に流れを呼び込みます。その裏、連続ヒットなどで、無死満塁のチャンスを作ると後藤選手が同点タイムリーを放ちます。

無死1.2塁で松坂投手の打席でしたが、ここは送りバントを決めます。2死満塁からセカンドの頭をわずかに超えた打球は、6点差をひっくり返すサヨナラヒットとなり、7‐6で逆転勝利を収め、春夏連覇の望みが残されました。

この試合もドラマかよと思うぐらい衝撃的な試合でしたね。あの展開からの逆転は誰が予想できたでしょうか。この2試合だけでもドラマティックな展開で伝説になるぐらいの内容でしたが、最後の決勝戦の締めくくり方がまた更にドラマティックでした。

夏の暑い甲子園で、5試合全部で登板し、その内4試合は先発完投。しかも準々決勝では17回250球で完投しており、疲労困憊のはずの松坂投手でしたが、春夏連覇をかけ、決勝戦の京都成章戦で先発マウンドに上がります。

初回はピリッとしない投球でしたが、尻上がりに調子を上げていった松坂投手は、バックの好守備にも助けられながら京都成章打線を封じ込めていきます。8回までノーヒットに抑え、春夏連覇と決勝戦でのノーヒットノーランのかかった9回のマウンドに上がります。

最後のバッターを伝家の宝刀スライダーで空振り三振に打ち取り、春夏連覇を達成、さらには59年ぶり史上2人目となる甲子園の決勝戦でノーヒットノーランを達成します。まさにこの夏は松坂投手の夏だったと言えるのではないでしょうか。

このストーリー凄すぎませんか?決勝戦をノーヒットノーランで優勝ってだけでも凄いことなのに、準々決勝のPL学園戦と準決勝の明徳義塾戦の激闘、春夏甲子園連覇、そしてその殆どの試合で先発完投してきたことが、『平成の怪物』たる由縁ではないでしょうか。

この成績をみると、改めてその凄さが伝わりますよね。この後、プロの世界でも高卒から3年連続で最多勝を取るレベルだったわけですから高校生が打てなくてもしょうがないですよね。素人目でみても、松坂投手は別格だったと思います。

西武ライオンズへドラフト一位!

甲子園を沸かせ、『平成の怪物』と呼ばれた松坂投手は、1998年のドラフト会議で、日本ハムファイターズ・横浜ベイスターズ・西武ライオンズから1位指名を受け、3球団競合の末、西武ライオンズが交渉権を獲得します。

これだけの選手に1位指名が3球団というのは少ないように思えますね。ただこの年のドラフト1位指名は凄い名前が揃っていて、

巨人:上原                         西武:松坂
中日:福留                         近鉄:宇高
阪神:藤川                         ロッテ:小林雅
広島:東出                         日ハム:松坂→実松
横浜:松坂→古木                ダイエー:新垣→吉本
ヤクルト:石堂                   オリックス:新垣(入団拒否)

と、各球団の中心選手、球界を代表する選手ともいえる顔ぶれがそろっております。2位以下でも、二岡・岩瀬・金城・新井貴・福原忍・赤田・建山・森本・川越・里崎といったチームの中心選手となる名前がありました。豊作の年ともいえるのではないでしょうか。

松坂投手は、ドラフト直後の会見で、意中の球団は横浜ベイスターズだったと語っていましたが、西武ライオンズへの入団を決め、背番号も憧れだった「18」を身に付けることになりました。

平成の怪物と呼ばれた松坂投手は、プロ1年目からその名に恥じぬ活躍をみせます。日ハム戦でプロ初先発を果たすと、初回、3番・片岡選手に対して155㎞/hのストレートで空振り三振を奪い、球場をどよめかせると、8回2失点でプロ初勝利を挙げます。

当時、パ・リーグでも屈指の好打者だった片岡選手から高めのボール球で三振を奪ったことが、よりインパクトを倍増させました。この映像はよく使われますね。

そして、ロッテ戦では、当時ロッテのエース黒木選手との投げ合いで、0-2と敗れた際に、「リベンジします」とコメントし、次の登板で再び黒木選手との投げ合いを1-0と初完封でリベンジを果たし、この「リベンジ」は、流行語大賞の年間大賞にもなりました。

さらに、オリックスのイチロー選手との初対戦では3打席連続三振を奪い、この日のヒーローインタビューで言った、「自信から確信に変わりました」も話題になりましたね。

最終的に、16勝5敗 防御率2.60 という成績を収め、45年ぶりとなる高卒新人で最多勝を獲得します。その快進撃は止まらず、2年目:14勝、3年目:15勝を挙げ、なんと高卒から3年連続最多勝のタイトルを獲得しております。

この成績をみたら、甲子園で戦った球児たちも、プロでも打てないんだから、自分たちが打てなくてもしょうがないと納得したかもしれませんね。

その後、二桁勝利は挙げるものの最多勝のタイトルを獲得することは出来ませんでしたが、西武在籍8年で108勝を積み重ね、球界を代表するエースと成長していきます。1シーズン平均13.5勝!さすが平成の怪物ですね。

メジャーでの活躍は?

2006年オフにポスティングシステムを利用してメジャーリーグ挑戦を表明します。入札の結果、ボストン・レッドソックスが交渉権を獲得しました。入札額が当時のレートで約60億円、年俸も含め、100億円の男とも呼ばれ話題になりました。

メジャー1年目、初先発は7回6安打1失点10奪三振で初勝利を挙げます。前半戦で10勝6敗 防御率3.84と上々の成績を収めますが、後半戦は不調に陥り、5勝6敗 防御率5.19で、シーズン通して15勝12敗 防御率4.40でした。

15勝はリーグ10位、201奪三振は同6位という好成績ではありましたが、その一方で、与四死球率はリーグワースト6位、1試合平均の球数はメジャー最多の108.8と制球力の課題が浮き彫りになりました。

それでも、チームは地区優勝を果たし、ワールドシリーズにも先発し、日本人初の勝利投手になるなど、ワールドシリーズ優勝にも貢献します。

2年目は、野茂英雄さん以来、日本人2人目となる開幕投手を任されます。勝敗はつきませんでしたが、開幕から8連勝を飾るなど前半戦10勝1敗 防御率2.65、後半戦も安定した投球を続け、18勝3敗 防御率2.90 と素晴らしい成績を収めました。

3年目は開幕前に行われた第2回WBCの日本代表に選出され、3勝を挙げる活躍で日本の2連覇に貢献し、個人でも2大会連続で最優秀選手に選ばれ、順風満帆に思えましたが、ここから少しづつ歯車が狂い始めます。


シーズンでは、打ち込まれる場面が多くみられ、右肩の疲労などにより2度の交渉者リスト入りをするなど、4勝6敗 防御率5.76とプロ入り後最低の成績に終わります。シーズン終了後の会見では、シーズン前より股関節を痛めていたことを本人が告白しています。

4年目は故障で出遅れ、好不調の波も激しい状況が続き9勝6敗 防御率4.69でしたが、徐々に状態は上向いてきていたようです。

5年目は、4月末より右肘に張りを感じており、故障者リスト入りをし、6月にトミー・ジョン手術を受け、3勝3敗 防御率5.30という成績でシーズンを終えることになります。翌年6月に復帰しますが、満足な結果を残せずにオフにFAとなります。

その後、インディアンスやメッツなど渡り歩きますが、かつての剛腕は鳴りを潜め、またリリーフ起用が多かったこともあり、先発への強いこだわりがある松坂投手は、日本球界復帰も視野に入れ、2014年のシーズンオフに再びFAとなります。

この頃には、投球フォームも昔とは全然変わってしまい、剛速球投手というよりは、変化球を駆使して打ち取る軟投派投手という感じになっていましたね。

日本プロ野球へ復帰後は?

2014年12月にソフトバンクホークスと3年12億という大型契約で入団が発表されました。平成の怪物がまた日本でみれるということもあり、ソフトバンクファンならず野球ファンの皆が期待を胸にしていたのではないでしょうか。

しかし、日本球界復帰後も怪我に悩まされ、1年目は1軍登板0に終わります。復帰2年目の2016年10月に10年ぶりに1軍での登板を果たしますが、1回3安打4四死球1暴投5失点と残念な結果に終わってしまい、1軍登録抹消されます。

引退も囁かれましたが、現役続行を示唆し、年俸4億円という契約も相まってファンや球団関係者からは否定的な意見なども目立つようになります。3年契約の3年目も結局、1軍での登板はすることが出来ず、3年間で1試合の登板に終わります。

ソフトバンクという球団は資金がありますし、松坂投手のこれまでの功績に敬意を払っての年俸4億という契約だったのかなと思いますが、その金額に見合った結果が残せていない分、非難が強くなってしまったのではないでしょうか。

2017年には中日ドラゴンズの入団テストを受け、西武時代の恩師でもある当時の森繁監督に拾われる形で、中日へ入団が決まります。キャンプから順調な調整が続き、2017年4月30日のベイスターズ戦で、4241日ぶりに日本での勝利を手にします。

さらに12年ぶりにオールスターにも出場するなど、6勝4敗と復活をアピールし、カムバック賞も受賞します。この時は、まだまだ平成の怪物は健在かと思われましたが、2019年の春のキャンプで右肩を負傷同オフに自由契約になります。

しかし、すぐに古巣西武ライオンズの入団が発表され、最後に古巣でもう一花と期待されましたが、その期待も虚しく、西武ライオンズでの復帰登板は果たせぬまま、2021年7月7日に現役引退が発表されました。

まとめ

これまで、松坂大輔投手の野球人生を振り返ってみましたが、なんというのでしょうね、栄光時代の位置が高すぎた分、転落した時の落差が凄いというか、振り幅が凄いなという感じを受けましたね。

ノーヒットノーランで甲子園春夏連覇を達成し、高卒から3年連続の最多勝を獲得、WBCでは2大会連続MVP、100億円の男と呼ばれ海を渡り、ワールドシリーズ優勝・・・まさに平成の怪物だったと言えるのではないでしょうか。

欲を言えば、200勝達成してほしかった。メジャーへ行かずに日本球界で続けていたらどんな成績になっていたのでしょうね。

松坂投手、23年間のプロ野球生活お疲れ様でした。たくさんの感動と興奮をありがとうございました。今後の活躍も期待しております。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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